鎌田 栄介

1862~1929年;文久2年~昭和4年

 文久2(1862)年に郷士・石井郷之進の二男として姶良村(今の鹿屋市吾平町)に生まれた。

 長じて高山町長能寺に住む日高梅園の塾に学び、和漢の教養、修身斉家、治国誠心の教えを受けた。
 郷士・鎌田八太郎の養子となり鎌田家を継ぐと同時に、姶良村役場書記となって村政に足を踏み入れ、42歳で第5代村長に推された。
 郡内一悪い村の財政を立て直すために、議員や村民の反対に屈せずに、官有林の払い下げを受け村有財産を築くことを主張した。 
 串良に泊まっていた国の役人を深夜に叩き起こして陳情して、その熱意が通じて、立地条件の良い官有林が、村に払下げられたのは姶良村が初めてであった。

 栄介は耕地整理にも貢献し、その結果農業は飛躍的に伸び、従来の湿田も二毛作化した。
 更に国分出身の農業技手を招き、その指導で植林や養蚕、タバコや普通作農業など一気に向上させた。
 また「小学校は高いところに移して広々としたところで教育し、雄大な人物を育てねばならない」と力説し、吾平、下名両尋常小学校を移転改築したのも栄介の英断であった。

 時は日露戦争のまっただ中、村長になって以来、栄介は毎朝、夜明けになると自宅近くの山に登り、大きな松の木につるした板鐘をたたいた。
 寒い満州の野で戦っている将兵を村をもって援護する鐘であった。

 根性の人であり、愛情の人であった。
 隠居の老婆を大切にし、嫁に対しても「嫁じょ嫁じょと憎むな嫁を、かわいわが子は人の嫁」といい、わけへだてなく気をくばった。
 妻タツもよくできた人で、隣近所を問わず、何がないと聞けば自分に必要なものでも届けて喜ばれる人だった。

 昭和26年、坂口助次郎町長のときに、吾平町役場横に栄介の頌徳碑が建てられた。

<関連資料>

参考文献:『不屈の系譜』 鹿児島新報社 昭和50(1975)年

(文責:朝倉悦郎)