米永 代一郎
1926年~1996年;大正15年~平成8年

米永代一郎は大正15(1926)年3月31日に鹿屋市で生まれた。
鹿屋小、旧制鹿屋中(現•鹿屋高)、旧制華北高工を経て、1944(昭和19)年8月に陸軍特別操縦見習士官に採用され、熊谷陸軍飛行学校等で訓練を受けた。
日本が戦争に突き進む時期に教育を受け、軍隊生活を経て、戦後の 945(昭和20)年に鹿児島工専(現•鹿児島大学工学部)転入学して建築を学び、卒業後に東京大学工学部建築学科聴講生となった。
米永は建築学徒時代に、主に都市計画・地方計画に関する数多くの論考、随筆を新聞や雑誌に積極的に投稿し、それらを集めて5冊の著書を刊行した。
昭和25(1950)年から千葉県庁の都市計画課で県内各地の戦災復興・都市計画を担当した後、企画調査室に移り、京葉工業地帯建設を中心とする総合開発計画に携わった。
昭和26(1951)年に千葉県職員労働組合定期大会で中央執行委員に選出され、1952年度は自治労連専従となった。
千葉県庁を辞し、昭和30(1955)年4月23日投票の鹿児島県議選に社会党より出馬したが、立候補者6名(定数2)中4位で落選した。
昭和30(1955)年5月に鹿屋市で旬刊紙「社会新報」を創刊し、創刊の辞で、「民衆とともに、民衆の生活のなかから生れ、民衆の要求を主張し、これを発展させ、実現させるため、民衆の生活と意志を無視し抑圧しているものに対して、民衆とともにかたく手をとりあって進むことを、社会新報は誓う」と綴った。
2年後に「南九州新聞」と改名し、大隅半島を中心とした地域報道誌として定着し、約5,000部が発行されていた。
米永が地域報道の他に力を入れたのは、鹿屋のもつ歴史の特質や、日本現代史のなかでの歩みを書き綴るライフワーク『鹿屋の年輪』の連載で、8 冊の単行本として刊行された。
さらに、歴史として鹿屋人の明日の生活文化を創造する糧に資し得たらと連載した『半世紀の鹿屋航空隊』は3冊の単行本にまとめられた。
南九州新聞と共に、これらの書籍は鹿屋市の発展とその背景や市民意識の変化を示す貴重な記録となった。
平成8(1996)年10月15日、米永は70歳でその生涯を閉じた。
<関連資料>
.jpg)
.jpg)
参考文献:
①戦後復興期における建築学徒・米永代一郎の都市計画に関する思考と活動
(公益社団法人日本都市計画学会都市計画論文集Vol.56 No.3,2021年10月)
②『鹿屋市戦後十年の歩み』(昭和30(1955年))
③『半世紀の鹿屋航空隊 戦後編』(昭和65(1990年))
(文責:朝倉悦郎)