竹内 三平
1854~1941年;嘉永7年~昭和16年

明治5年の学制により大姶良に都城県第55郷校が設置され、竹内三平はその教師の任命を受けた。同10年2月西南戦争が勃発して、大姶良と南の郷士を合わせた54人の1人として20歳で参加した。
戦後の裁判で三平は分隊長を務めていたため懲役6ヶ月の判決を受けた。同12年に再び大姶良小学校の教師に復帰し、17年まで5年間在職した。
明治17年各郷、官選戸長制が敷かれ、20年に任命されて戸長となったが、同22年4月に大改革が加えられ、従来の小村区域(大姶良、野里、浜田、南、西俣)を廃止し大姶良村に統一された。その初代村長に選ばれ、村役場を大姶良麓に置いた。
大姶良村は1,642円の予算で出発した。産業面における活動も多大であったが、40年代は耕地整理組合長に就任し、獅子目、横山、南、西俣などの耕地整理事業に着手した。
大姶良方面の主要道は、藩政時代そのままで、高須から上浜田を経て南より吾平に至る間は、上り下りが多く、曲がりくねった道路であった。
村民の反対もあったが、村政100年の大計のために約16kmの直線的に走る道路に改修した。
寡黙で「不言実行」を旨とし、政治家にありがちな公金をはじめ金銭に関するトラブルは一切なく、金銭面での潔白さを身上とした。
売名行為とは無縁のところで人材の養成や発掘には私財を投じ、その精神が後進に生かされて、永田良吉氏(第12代村長、県議、第2・6・7代鹿屋市長、代議士)、池田俊彦氏(学習院教授)、五代貞直氏(教育者)、大川喜之助氏(茶業界の恩人)、中島万助氏(産業組合育ての親)、津崎長角氏(産業組合の振興)等の人物を輩出させている。
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参考文献:『大姶良の歴史と文化』大姶良経済文化同友クラブ編集・発行 平成27(2015)年
(文責:朝倉悦郎)