立元 明光

1918~2019年;大正8年~令和元年

 桜デパートの創業社長の立元明光は、大正8(1919)年10月10日に曽於郡末吉町深川の農家に生まれた。近所の2歳下の山中貞則(後に代議士)とは幼友達であった。
 昭和12年に宮崎県立都城商業学校を卒業し、日本郵船の上海丸の事務長見習いを務めた後に、三菱重工業長崎造船所に転職した。
 昭和15年に鹿児島市伊敷町の歩兵第45連隊に入隊し、昭和20(1945)年の終戦で復員した。

 親類知人の反対を押し切って、26歳で未知の鹿屋に来て、昭和20年12月に駐留軍米兵相手の6坪の土産品店「桜商会」を北田町に開店した。米軍が別府に移動すると、日本人相手の洋品小間物雑貨の店として再スタートした。
 特色ある個性を出すことに務め、値切り商法の悪習一掃のために、掛け値なしの「正礼販売」を断行し、大きな信用を勝ち得た。恩師新保民八から与えられた平田篤胤の言葉をアレンジした「正しきによりて滅びる店あらば、滅びてよし、断じて滅びず!」を社是に掲げ、この信念を貫いた。
 郷里末吉から呼び寄せた母親兄弟妹、特に弟3人の協力を得て、その後2回店舗を拡張し、昭和28(1953)年12月1日に大隅半島で初めて、県内で2番目のデパートを開店した。この時に立元は弱冠34歳で、社名を「桜商会」から「桜デパート」に改称した。

 その後規模を拡大し、地下1階地上7階建て、延床面積約9,200m2を誇る大型百貨店として市民から親しまれた。34年に家庭電化製品の需要増を見越して桜商事を設立、35年に志布志桜テパート、37年に桜製菓、41年に宮崎県串間市に串間桜テパートを設立した。
 さらに多店化・多角経営を推進し、寿、西原、大崎、串良などにも店舗進出し、世相に応じて不動産部門や緑化造園部門、桜観光を設立し、最盛期には千人もの従業員を抱える一大企業に成長した。桜デパート名物の桜まんじゅうは、多い時で1日平均2千個販売されたという。

 また、地域社会あっての桜グループということも忘れず、スポ ーツやボランティア活動の支援、「小さな親切運動」の推進の先頭に立ち、鹿屋市内の若手経営者の指導育成のために「鹿屋七日金」、鹿屋海上自衛隊との連携強化を図る「鹿屋ニ火会」を結成し、さらに鹿屋ボーイスカウト・鹿屋ロータリークラブ・鹿屋ライオンズクラブなどの多くの団体の創設に尽力した。
 地域との連帯と奉仕のため、鹿屋市、志布志市、垂水市、国立鹿屋体育大学、大隅肝付消防組合、郷里末吉町などへ計約一億円を寄贈した。

 多忙な仕事を離れた立元の趣味はゴルフと魚釣りであった。その後、桜デパートは市民から惜しまれつつも平成6(1994)年8月31日に閉店した。
 まちに夢を与えた立元は、令和元(2019)年9月16日に数え年で百歳(満99歳)で亡くなった。

<関連資料>

                 昭和34年の北田交差点
                    桜デパート

参考文献:
①立元明光氏の遺品の資料(藤野哲平氏から拝借)
②『かのや風土記 ~鹿屋学入門~』鹿屋市教育委員会発行 令和5(2023)年

(文責:朝倉悦郎)