池田俊彦
1880~1951年;明治13年~昭和26年

明治13(1880)年4月7日に鹿屋市大姶良麓の池田彦太郎の長男として誕生し、明治40年9月に東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。東大を卒業し麻布中学校に教鞭を執ることになった。当時の校長は江原素六翁で、至誠高潔稀に見る偉大な教育者で、その薫陶を受けた。
午後からは芝白金三光町の島津家編輯所に勤務して、大隅の田代出身の小牧昌業博士を総裁とする島津家国事鞅掌史料の編纂に従事し、小牧博士とは室を同うして終始懇切なる指導を受けた。
大正5(1916)年6月から学習院に転じ、西洋歴史の授業を担任し、かつ学生寮の寮務に関係し、在職中の14年間、寮生たちと起居寝食をともにした。昭和14(1939)年9月から1年2ヶ月の間を欧米4ヶ国に留学して、西洋歴史と寄宿舎制度を研究した。
昭和5(1930)年に鹿児島県立第二鹿児島中学校校長(現在の鹿児島県立甲南高等学校)に就任し、その後、池田の敬愛する偉人や、池田の思想・信条などがうかがえる講話、訓示をたくさん残した。島津斉彬公、西郷南洲翁、中原猶介など郷土の先人や、専攻した西洋史の英傑の思想・業績について熱情をこめて講話した。
「人は如何に行き、如何に困苦に処し、如何に命運に対すべきか」諄々と説きおこし、大きく温かい人間愛と、教育者としての気迫が、生徒たちに惻々として伝わった。
戦時中は、その時の権威に屈せず、抗議したり、自分の意見を披瀝する、気骨のある教育者であった。
二中学校長を在職17年、昭和20(1945)年の敗戦の年に退職(65歳)、その後、本県教育会長となり混乱した教育会の立て直しに努力した。
生家を出てから53年目に帰郷し、晩年は大姶良にある生家で過ごし、『島津斉彬公傳』を執筆した。少年時代の昭和天皇の家庭教師をしていたことがあり、昭和24年に鹿屋に来られた昭和天皇と再会された。
昭和26(1951)年9月13日に死亡。昭和41(1966)年、大姶良小学校に「池田俊彦先生顕彰碑」建立。
<関連資料>
.jpg)
.jpg)
著書『大西郷とリンカーン』に、人類の発達には偉大な指導者が必要で、その偉人の具体例と条件について池田が述べている。
即ち、世界で真の偉人は西郷とリンカーンであり、ナポレオン、成吉思汗または豊臣秀吉は自己中心主義者で偉人ではないと書いている。
そして、大西郷やリンカーンは、自己に厳他人に寛、而して一片の私心なく恬淡無欲富貴功名の上に超越し度量遠大何人に接しても城府(しきり)を設けず直に赤心を人の腹中に置くといふ風で情緒纏綿(じょうしょてんめん、愛情が深く離れがたいこと)弱者に対して同情深く敵に対しても寛大なる精神の持主なることである、と。
(文責:朝倉悦郎)