大川 八重

1901年~1973年;明治35年~昭和48年

 明治35(1901)年に長野県浅間市の生まれ。東京で教べんをとっているとき結ばれた夫・信義が病に倒れたため、昭和7(1932)年に夫の郷里鹿屋市へ帰り、再び教壇に立ち、夫の看病を続けた。

 夫は鹿屋市制施行16年後、初の市議選に当選するなど、一時回復したが、終戦の前年に死去。それから二男一女をかかえ大川の生活との苦しい戦が始まる。
茶の栽培、養豚、米の配給所など、いろんな仕事を手がける中で、母子家庭の苦しみをはだみで感じ取った。

 そして昭和22(1947)年の婦人参政が許された初の市議選に立候補した。「日の当たらない母子家庭へもっと政治の光を」という願いをこめての立候補だった。
選挙は初めから苦しい戦い。選挙資金がなく、1万円の供託金を納めるのが精いっぱい。ビラ書きや選挙準備はいっさい自分でやった。「女のくせになまいきだ」と周囲の風当たりも強かった。
しかし、選挙責任者を勤めた二男の和郎、無報酬で応援にかけつけた教え子、知人、未亡人グループの声援が何よりも彼女を力づけた。”婦人の自覚””母子家庭に光を”と訴える彼女のガラガラ声には一段と熱がこもった。

 ふたを開けてみると、定員36人中8番目という思いがけない上位当選。女の心意気はみごと勝利の栄冠をかちえたのだった。その後、彼女には次の選挙で落選という試練もあったが、昭和30年の選挙でカムバックし、昭和46(1971)年まで5期務めた。
鹿鹿児島県下の市町村の婦人議員では最古参の一人になった。

 昭和35(1959)年から県未亡人団体連絡協議会(現在の鹿児島県母子寡婦福祉連合会)の第4代会長も勤め、母子家庭の世話に元気に飛び回っていたが、会長在任中の昭和48(1973)年7月9日に72歳で死亡した。
 昭和44(1969)年に厚生大臣より母子福祉功労者として表彰、昭和46(1971)年に市議20年表彰、昭和48(1973)年に従六位・勲五等瑞宝章を受章。

<関連資料>

               鹿屋市市議会議員時代の記念写真
鹿児島県母子会だより

参考文献
①『郷土人系』(南日本新聞社、昭和45(1970)年発行)
②『鹿屋市史 下巻』(平成7(1995)年発行)
③『社会福祉法人鹿児島県母子寡婦福祉連合会 創立70周年記念誌』(令和6(2024)年発行)

(文責:朝倉悦郎)