永田 良吉
1886~1971年;明治19年~昭和46年

大姶良村西俣(今の鹿屋市永野田)で、明治19(1886)年平民の三男として生まれた。鹿屋農学校の2年を終えて、加治木中学校の3年に編入した。日露戦争に勝利した翌年の明治39年に、20歳で加治木中学校を卒業し、26歳まで代用教員をした。明治40年に1年志願兵として熊本の第6師団の野砲兵第6連隊に配属された。
27歳の大正2(1913)年に大姶良村の村会議員に当選。3年後に助役に就任し、大正6(1917)年に31歳で大姶良村の村長になった。その直後に、東京の大倉財閥が経営する最新鋭の澱粉工場を大姶良に誘致した。村長としての最大の仕事は、村の現状を分析し、方針を決め、目標を示した「大姶良村是」の作成で、完成に3年を要した。村長の時に山に植えた木が、後年鹿屋市の財政赤字を救った。
大正8(1919)年に33歳で県会議員になり、波見橋建設、鹿屋中学(今の鹿屋高校)設立、大隅一周鉄道敷設、養蚕振興、大企業・昭和産業の誘致に尽力した。
昭和3(1928)年に42歳で衆議院選挙に初当選し、県内初の平民代議士となった。衆議院議員を8期務めた。
国会に2000件以上の請願(国費によるプロジェクト事業要望書)を提出して、高隈ダム建設と笠之原畑かん事業完成(昭和2年請願、昭和42年に高隈ダム通水式)、敬愛園誘致(昭和10年開園)、鹿屋航空隊誘致(昭和11年に開隊、昭和29年に海上自衛隊鹿屋航空隊開隊)、大隅線完成(昭和47年国分海潟開通、翌年に鹿屋~鹿児島に快速列車運行、昭和62年に国鉄大隅線廃止)に尽力した。
3年半は衆議院議員を兼任しながら、鹿屋市長(第2・6・7代)を歴任した。
観音経を信仰し、「施無畏」(恐れを抱かせないこと)をよく揮毫した。「政治は愛なり」が信条で、差し押さえ36回の貧乏生活を続けた。母親と妻も慈悲深い人であった。
<関連資料>
東京の大倉財閥(大成建設、東京ガス、帝国ホテルなど約200社を創業)が鹿児島県下に最新鋭の澱粉工場8工場を造ると永田良吉が聴き、肝属郡の工場は内定していたが、大正6年(1917年)に31歳で大姶良村長になった二週間後に猛烈な誘致運動を起こした。
担当専務を鹿児島市に尋ね2週間も滞在して、自宅前の土地をタダ同然で提供して、永野田に大正8年(1919年)に日本澱粉を誘致した。
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その頃の澱粉工場の動力は水車で1日50俵位つぶす状態であったが、日本澱粉は電力使用の機械工場で1日1台500俵、2台で1,000俵つぶした。
当時カライモ100斤4、50銭の相場であったが、1俵1円から1円50銭に芋の値上がりを見た。
この澱粉工場ができてから、地元農家のカライモが高価な換金作物になった。
社名は変わったが、澱粉工場(西阪澱粉社)は現在も永野田の永田家の道路向かいにあり、操業中(106年目)である。
参考文献:大場 昇著『評伝 永田良吉 (最後の井戸塀政治家) 』 平成22(2010)年
(文責:朝倉悦郎)