小野 勇市

1883~1939年;明治16年~昭和14年

 笠野原台地は、厚いシラス層からなる約6300haの広大な台地である。藩政時代から生活用水を得るために、台地のあちこちに生活用水用に深井戸が掘られた。文政年間から天保年間(1818年~1843年)の頃である。
 井戸の深さは30~83mであるから、一人で水を汲みあげることはできない。その後のかんがい事業は進まなかった。飲水は遠方から馬で運んだり、深井戸から牛馬で縄を引かせて汲み上げていた。風呂は、井戸のある裕福な家の手伝いをしながら、「もらい風呂」をする人が多かった。

 小野勇市氏は明治16年(1883年)に、高隈村大黒(今の鹿屋市下高隈町大黒)に生まれた。

 18歳の時から水を集落まで引くという事業をまわりの人に語り、技術的な対策の勉強を続けた。
 枦場に移り住み、水の苦労を感じていた同じ考えの岩元甚吉氏と出会い、明治34年(1901年)に大堀方限(町内会)の総会に、竹を用いた水道の案を諮り、48戸の同意を得た。苦労して人を集めて、明治34年に孟宗竹3,000本をつないで、難工事の末に山下から枦場まで8km水を引いた。
 竹の節抜きは、松の木に竹を立て、上から鉄棒を落として節を空けたという。竹のつなぎが外れないように見回りもした。
 まわりから絶対不可能と言われた難事業をやり遂げた。竹管水道は笠野原水道ができる昭和2年(1927年)まで使われた。

 その後、串良村の中原菊次郎氏や鹿屋町の森宗吉氏などの協力を得て、鹿屋町、串良村、高隈村の3町村で笠之原水道組合と笠之原耕地整理組合を結成し、昭和2年(1927年)に全域に通水した。
 水道敷設事業が終わってから、昭和2年から耕地整理事業が本格的に始まり、昭和9年(1934年)に完成した。
 その後、高隈ダムができて、日本初の国営の畑かん事業が順調に進んだのは、耕地整理が既にでき上がっていたからであった。

 小野勇市氏は28歳で村会議員に推され連続8回議員を勤め、任期中の昭和14年(1939年)4月28日に57歳で他界した。

<関連資料>

参考文献:黒木次男著『不毛の台地に輝きを 不屈の挑戦』 令和5(2023)年

(文責:朝倉悦郎)